Setsuko Yoshitake interview

the philosophy of Setsuko Yoshitake 大きな画材いっぱいに広がる独特の表現方法と色づかい。特に、絵画の批評家を中心に、その色彩感覚への評価は高い。
彼女の創造する「油絵」の世界とはどのようなものか。これまでの活動を振り返ると共に、彼女の世界を構築する背景にせまってみた。

吉武節子の絵画の世界 date: 2012.07.01 place: chiba in japan interviewed by media-r

鑑賞者の眼の試練に耐えられるような作品を作り上げたい
Setsuko Yoshitake interview 吉武節子の絵画の世界

-質問-
人は、なぜ絵を見ると、考えていますか?
さらに、絵画は、それを愛好する人たち、鑑賞する人たちに何を与えていると、考えていますか?

-答-
絵を見る行為は、一般的に言って、展覧会の形式をとっています。会場に行って、絵と対面します。
それとは別に、身近な所に、作者の名前が有名無名にかかわらず、自分の好きな絵を置いている、幸せな場合もあります。 絵が人に何を与えてくれるかについては、鑑賞者皆それぞれ、それまでに得た何らかの知識によって、明瞭な、あるいは漠然とした知識があります。その知識は、誰にも同じ部分もあれば、個人的な特殊な部分もあるでしょう。
この知識は、見る絵の前に立った時、試練を受けます。この試練が、なぜ絵を見るかに結びついています。
ある人にとっては、会場に行く過程が好き、会場の美しさ、清潔さが好き、友達と行くのが好き、あるいは一人が好きなどとあるでしょう。これも、決して無視できない絵画の楽しみかもしれません。ですから、これも、なぜ絵を見るかの一つの答えかもしれません。ただ、この楽しみは、花見に行く過程の楽しさ、演劇、音楽会へ行く過程の楽しみなどと、同じでしょうか? 私の考えでは、違うと思っています。形は似ていても、そこには、意識しないまでも、また人によって差があるにしても、既に、絵の世界を通した、自分の存在の自覚があるのです。色と線と形を通した自分の存在とも言えます。
いずれにしろ、結局は、絵の前に立つことになります。その時の、展覧会の状況がどうであれ、絵の前にいるわけです。
私は、先ほど、試練と言いました。この言葉は、辛い苦しいイメージを伴っているかもしれませんが、そうでないのです。昔の譬えで言えば、良薬口に苦し、ですか、安らぎを意味することも多いのです。
ですから、いろんな経験を、絵の前ですると言ってもいいでしょう。無味乾燥、嫌悪、退屈、味わう事はさまざまでしょうが、時間を超えた、星を見て底深い考えに捉えられるような経験をすることがあります。自省の念を伴った、創造主(あるとすれば)に会ったような感慨を覚えます。世界の秘密を覗いたような、感覚的に納得したような不思議な感覚、安らぎといってもいいでしょう。
この安らぎは、常に自分と関わっています。事情によって、辛い境遇にいても、素晴らしい絵を見て、自分が偉大な存在に思える一瞬があります。これは、絵画の素晴らしい特徴だと、思っています。
音楽にもそのようなところはありますが、目の前に、演奏家がいます。自分とは違って、立派な人となりです。場合のよっては、これは、辛い生活を送っている者にとっては、気の滅入る事です。小説などは、あまりにも具体性があり過ぎます。財布の状況だとか、家、車、境遇、色々です。
ところが、絵の場合、色と線と形などの以外には、何もありません。作者なんて、見えもしません。もちろん、豪華な室内や、お城などが描かれている場合もありますが、これなどは、見る者にとっては、いわば、月や、山みたいなものです。欲しがる物でもありません。始めから諦めがついています。具体的な事物を離れて、新しい次元に招かれることができます。ともかく、この安らぎという点に、ご質問の要点があると思います。
実は、この体験は、日常生活にもよくあることです。ただ、はっきり意識していないだけです。自分の小さな生活の範囲の中でも、ちょっとした出来事に会って、ついつい、そんなこともあリ得るのかなあと、いろいろ思いにとらわれることがあるでしょう。
これは、自分の限られた知識、体験が試練に会っているともいえるのですが、普通、こうした時間は、次の行動のために、忘れられてしまいます。ところが、実際は、ここに、絵の出発点があり、鑑賞者に与えることが出来そうな物があるのです。
自分の身近な所に、好きな絵を置いておられる、幸福な方について言えば、買った当時の、自分が受けた試練の懐かしい思い出が、常にそこにあるわけですが、その存在を気にせずに、日々を過ごすことも多いでしょう。しかし、落ち着いて眺める時もあるでしょう。その時に、あなた自身がよく分かります。ところで、本人自身も変化しています。変化の概念は、理解するのがかなり難しいのですが、目の前に少しも変わることのない色と線と空間で出来た、手に入れた時と変わらない、一枚の布があります。それを眺める時間が、水に写る影のように、あなたを動かして、試練という安らぎを与え続けてくれるでしょうか。あるいは、これまでに経験したことのない、違和感のような物が生じることになるのでしょうか。これも、また、あなたの感情教育、思考教育には重要な要素です。いずれにしろ、あなたには、こうした楽しみがあるわけです。
絵を描く私の立場から、最後に申しておきますと、これを描きたいと思った瞬間から、あるイメージの核心が生じることがあります。その核心の様子は、さまざまです。日ざしを浴びて、小さな範囲を飛ぶ、小さな虫のようでもあれば、花のつぼみのような時もあります。後は、この核心部分を発展させていきます。
簡単ではありませんが。考えていることは、鑑賞者の眼の試練に耐えられるような作品を作り上げたいということです。そのためには、労を惜しんではいけません。
私は、最初の段階から、構成という作業にはあまり関心を持ちません。心に生じた時のその時のイメージを再現するように、私の絵に関する知識、想像、予感を発揮して、進むのが、わたしの方法です。その結果、不器用な、不格好な表象が出来上がったとしても、後悔はありません。これも、人それぞれです。私は、草花を通して語ることが多いと言っていいでしょう。そして、この時、自分の力を、エネルギーを最高に発揮しなくては、いい結果は出ません。勿論、発揮しきっても、常に、結果がいいとは限りません。

―質問―
現在、悪いニュースばかりが目立つ世相ですが、絵はそこでどんな役目を果たすのでしょう?

―答―
どんな時代でも悪い時代だったのではないでしょうか?それは、相対的な問題であって、その時代に生きている人にとっては、こんなひどい世の中は無いと思っていたと、私は想像します。
一般に、人は過去の時代としか比較できません。その際、過去の、数字、統計や、文書類の証言、時には、絵もそうでしょうが、そうした物から得た、その人なりの過去のイメージで、現在と比較します。その際、今は、あの時代より、良いかなという感想を持つことはあるでしょうが、その多少は良いかなと思われる今の時代に於いても、過去の悪い時代より、惨めな生活をしている人は、結構存在している訳ですから、やはり、相対的な問題というほかありません。
誰しも、その時代の空気を吸って生きている訳ですから、自分の感じる、あるいは考えるその時代の姿に対する、さまざまな反応を持ちます。たとえば、こんないい時代はないが、こんなものが欲しいとか、物だけでは無くて、精神的な物もですが、あるいは、こんなひどい時代は無い、こうなければならない、とか、なんらかの動機づけが生まれてくるわけです。それに加えて、絵描きの場合は、絵を取り巻く環境が、絵の歴史などが、そこに参入してきます。そして、ここからは、どんな時代であっても、絵描きは絵描きとしての自分の仕事を、絵は本来の絵の役目を果たすとしかない、としか言えません。
それでは、本来の絵とは、何だということになります。それは、さっきの答えに戻ると言う事になるでしょう。さらに、つけ加えておきますと、折に触れ、私は、アルタミラ、ラスコーの洞窟に絵を書いた人たちのことを、縄文時代の壺の形、模様を作った人たちのことを、考えます。いろんな思いが、雲の形のように、湧いては、形を変え、時間のたつのを忘れます。そして、戻って来るのは、色、線、形についての妄想です。色、線、形、これで、私たちは物語るわけですから。

―質問―
絵に関して人間の持つ、表現力の可能性についてですが、無限だと思いますか? 美術館などに行っても、子供騙しのような人形を置いて、作品としているのに出くわすのですが・・・・ 幼稚な、馬鹿にされている気もするのですが。

音楽でもそうですね。現代音楽と称して、幽霊の出てくる映画やテレビの場面にしか使えないような、音の羅列がありますよね。そして、音楽と言っています。しかし、これが本当の音楽だろうかという気はします。
理論の進歩、進歩と言うと、良いイメージが先に来ますので、理論の変転とでも言いますか、これは必ずしも順調な成長、発展と結びつかないようです。
順調な成長、発展などは、自然科学などの分野にしか無いのでしょうかね。勿論、原子力、化学肥料、汚染などの弊害を伴っていますが、今ある段階より、先の進んだ段階に達して行くのは、確かでしょう。
いずれにしろ、どの分野でも、今までの過程を踏み台にして、新しい考えが出てきます。それに実践が後からついて行く形になりがちです。この調和が難しいと思います。しかし、ここに可能性の鍵があるように思えます。
絵で言いますと、わたしは抽象画の発生の頃の歴史をよく調べてみたいのです。印象派の後の歴史ですね。それまでの伝統を乗り越えて行くための、本当の意味の努力がなされていたのか、知りたいのです。皆が、模索してきている訳ですから、それなりの成果は、あったのでしょうが、そこをもう少し眺め直してみたいのです。
芸術は長く、人生は短い、と言いますが、わたしの技術も本来は、無限なのでしょうが、努力をする限りの話として、その前に、体力がなくなってしまいます。それを意識して、進むしかないのですが。

―質問―
ここで、少し話を変えて、絵の技法、絵の歴史などについて、簡単にお聞きしますが、その前に、どうして絵を描き始めたのですか?

―答―
そう聞かれまして、あの頃のことが、急に甦り、懐かしい思いです。しかし、悲しい思いもありますね。これだけしか歩いて来ていない。勿論、これが発奮材料になりますが。特に、最近、日本の絵巻物の絵を見ていると、可能性を感じるのです。能力を超えたような力を感じます。
絵を描き始めた動機は、一種、突然でした。普通の学校に行こうと思っていたのですが、高校二年の時、方針を変えました。子供の頃、母たちに、星の光を見て、いろいろ尋ねていた時代が、再現したようなものでしょうか。また、一般の進路の受験より、絵の方が楽と思った記憶もあります。これは、結果的には大間違いでしたが。あとは、絵の先生の塾で習い、初めての県展に入選したので、自信をつけ、女子美に入りました。
私は、博多の出身です。なにも分かっていなかった時代ではありますが。しかし誰もが、ここから出発する訳ですからね。
絵の技法、歴史などについては、専門書に任せて、私に関することを述べますと、私は、油絵、油彩という言い方もしますが、この油絵に、パステル、クレヨンの技法を混ぜることがあります。そうすることで、勿論程度問題ですが、併用した方が色彩的変化に富み、魅力が増す場合があります。ただし、材質の違いもあり、画面保護のためには、慎重を要します。
いつでしたか、展覧会出品作を製作中、画面の野草の中に、カラス瓜の図を入れました。その時、そのカラス瓜にパステル、暖色バーミリオン(朱)を入れましたら、画面が華やいだことがありました。効果が増します。
この点については、私の本も参考にしていただければと、思います。宣伝ではないのですが。
絵の歴史とおっしゃいましたが、油絵に関してということで、西洋の方から言いますと、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス期を経て、バロック、ロココ、新古典、ロマン派、レアリスム、印象派、後期印象派といった巨大な遺産、これに、さらに偉大な、古代東洋の遺産があります。私の印象では、古代東洋の遺産は圧倒的で、至上のレベルに達している物も多いと考えています。それはともかく、これらを画集で見るだけでも、気が遠くなるほどの宝です。
昔の画家志願者が、こうした大作を美術館で模写して、勉強した話を聞いたことがありますが、この昔の画家志願者たちは、この莫大な遺産の下敷きにならないですんだのでしょうか?この圧力をはねのけた人だけが何か発見をするのでしょう。私には、こうした西洋の偉大な絵画遺産を画集で感嘆する以外、実際に見たことはありません。勿論、日本にやってきた作品は別です。
それと、我が国の偉大な絵画、仏像などの作品、建築物、庭園、工芸品などには、大変親しみました。
これが私の環境で、若い時には、海外にも行ってみたいと思いましたが、とても無理でした。ですから、自分の環境を素直に受け入れました。
ところで、先ほどの歴史ですが、西洋の宗教画の業績は、目が眩む思いがします。と同時に、正直、歯が立たない感じです。私が理解できるのは、ロマン主義以降です。印象派の後、後期印象派から、象徴主義、フォービズム、エコール・ドゥ・パリ、さらには、表現主義、キュービズム、抽象、ダダ、シュールと続きますよね。抽象の出現する分かれ目、ここに興味があると、先ほど言いましたが、ここを私なりに、見直してみたいのです。
世の中に、新しい物は無いと言います、ただ、自分が知らないだけですと。私たちになじみ深い印象派の後、何か見落としは無いか、見てみたいのです。

―質問―
好きな画家は? 油絵をされているので、その本場、ヨーロッパでは?

―答―
偉大な画家がいる中、一言では言えませんが、ピーター・ブリューゲル(父)が、第一です。色彩の美しさ、透明さ、混じりけの無さ、太陽の力だけに頼らない、本当の美しさがあります。それと、雰囲気の明るさ。どんな心と、どんな視線を持っていれば、あんな屈託なく、物事を把握できるのでしょう。子供たちのかわいいこと。空想力と、心の温もりを感じるのです。偉大な中にも、謙虚さを感じます。
近代では、セザンヌとゴッホです。セザンヌの画には、平凡な情景であっても、なんという生命力がこもっていることでしょう。色彩にも濁りがありません。輝いています。近辺の人にとっては、ごく普通の山だろうと、私は想像しているのですが、その"サント・ヴィクトワ―ル山"の絵は、爽やかな懐かしさを持っています。構図、山の形態、とりわけ、色彩の選択などに、魅力の秘密があるのでしょうが、どうやって、こんな境地に達したのでしょう。私は、セザンヌの絵を見ると、宇宙の動き、星の動き、身近な物で言えば、電車を思うのです。人は、平凡、決まり切った型通りのことを嫌いますが、それは、正しいのでしょうか? 星や太陽や月が、今日は出るの止めたなどといって、それこそ雲隠れするでしょうか? 電車は、ストで止まったりするでしょうが、それは、論外にしましょう。
平凡さの中に、人間の本当の威厳があると、考えています。セザンヌには、そういった偉大さがあるように思います。子供に囃子立てられ、追いかけたとかいう、そんなエピソードなど思い出すと、面白いですよね。
嘘か本当か知りませんが。ゴッホの場合は、なにより色彩の輝きです、燃える命の輝き、激しい輝き、そこには、少しさびしさ、悲しさも漂っていますが。それに、ぐいぐい人を引っ張る、形象ですね。勿論、日本の絵画との近接性が親しみを、勇気をあたえてくれます。

―質問―
今度は、その日本の絵画の話になりますが、好きな画家とか、その辺の話を。

―答―
そうですね、日本の絵画、そう聞くと、なにより自分が絵の勉強を始めていた頃が、頭に浮かんできますね。日本の絵画の領域の一員になった訳ですから。大学時代、回数は多くはありませんが、奈良にあった日吉館という、美術関係の人にはよく知られていた旅館に泊まり、訪れた奈良、京都の寺院の光景は、今から見ると、心の露の輝きです。卓越した仏像、木造のさまざまな寺院の構成美、美術館、周りの風景などに、心の準備をして貰った気持ちがします。戦前の、例えば、昭和の初めごろから見れば、辺りの環境も俗化していたのかもしれませんが、私たちの時代は、それでも、のどかでした。最後の楽園ですか。
奈良京都の仏像、平安期の仏画などに加えて、その近くの美術館の収集品、東京で眺める機会のあった洋画、日本画などの薫陶を受け、結局、草花に語って貰う境地に辿りつきました。その間、日展、光風会系の先生の指導も受けました。また、在野の先生の教えも受けました。今思うのは、日本の絵画遺産の本当の価値を、昔は、理解していなかった、ということです。理解していたつもりでは、いいましたけど。
さて、私の好きな画家となりますと、言うのが、本当に困難です。
その前に、敢えて言いますと、絵ではありませんが、奈良京都の仏像、建築は、仏画は共に、あげたいのです。これらは、あの周辺の光景と合わせて、絵ごころの揺りかごと言っていいと思います。
それに、子供の頃、枕元に、広重の浮世絵の風景画が描かれた屏風が置かれていた時代ですから、あまり意識していませんでしたけど、ああいう情景に影響を受けていたのかもしれません。それに、子供の頃は、いたる所、まだ日本の古い景色が残っていましたから、絵を思わせる一場面一場面に、心の振動を感じていたのかもしれません。
ともかく、好きな絵といいますと限りはないのですが、まず、絵ではないのですが、京都広隆寺、"弥勒菩薩半跏像"は特に好きです。
さて、絵となりますと、京都博物館の唐絵の山水屏風(せんずいびょうび)に始まり、やまと絵の系統、月次絵、四季絵、名所絵といわれる流れ、"源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画, 信貴山縁起絵巻, 伴大納言絵詞, 粉河寺縁起絵巻, 地獄草紙,平治物語絵巻、伴大納言"、一遍上人、弘法大師などの高僧の絵巻、"寝ざめ物語絵巻"、その他一連の絵巻物語は、見て飽きませんね。エネルギー、観察力、想像力、ユーモア、楽しく、教えられます。
似絵 伝・源頼朝像・平重盛像なども、実に気品高い、比類ない作品です。
枯山水の庭にはどうしても触れずには、おられません。そして、なにより、雪舟さんですよね。構想力の壮大さ、そして、緻密さ、場面展開の鮮やかさ、墨による光りの表現のみずみずしさ、"四季山水図"の黒い点々が、ゴッホの絵を思い出させて、楽しい物です。
土佐派、狩野派の業績も、歴史を重ねて来た美の世界への、壮絶な戦いに思え、そして、エネルギーと意志のこもった、芳醇な実りとなり、心が洗われます。小さな事にも手を抜かない心くばりがあります。
ここで忘れていましたが、平安時代の仏画にも見とれていたものです。京都の、"十二天像"、"釈迦金棺出現図"、東京の"十六羅漢像"、"孔雀明王像"、"普賢菩薩像"、"虚空蔵菩薩像"、などの、繊細で、豊かな色彩と、技術には、溜息が出ます。
"餓鬼草紙"、"病草紙"なども、子供の頃聞いた地獄話に結び付き、想像が、広がっていきますね。
さあ、ここで、宗達、酒井抱一、広重で、私の話も、終わりにしましょうか。
光琳もですが、宗達、偉大ですね。建仁寺でしたか、始めて"風神雷想図"を始めて見た時、疲れも忘れるほど、感動しましたね。これに使われた、たらしこみという技法は、水墨画、"蓮池水禽図"にも応用され、見事な世界です。宗達には、想像力、確固たる技術、構成力、色彩の透明度はもちろんですが、そして、ユ―モアなどが備わっています。源氏物語の関屋の巻ですか、牛車を引っ張る牛の目玉の面白いこと、笑いが出ますね。
酒井抱一については、"夏秋草図屏風"、それに、メトロポリタンにあるので、画集でしか見たことはありませんが、"柿図屏風"には、ほろりとします。
最後に、広重です。簡明で、中に複雑さを秘めた風景。今にも、自分も夕立に濡れそうですよね。技術を感じさせない技術。鮮やかで、清い色。あんな風景の中に、囲まれたいと思います。蒲原の雪の光景ですが、ピーター・ブリューゲルの雪の光景を思い出させます。理解すると言う事は、同等になるということでしょうか。広重は、世俗にありながら、それを超越した人物のようです。
こう見て見ると、すべては、宝石のつらなりです、ところが、このほかにも素晴らしい作品が、あるのですから、驚きです。

―質問―
最後に、これまで絵を描いてきて、嬉しかった事とか、何か言っておきたい事とか、ありましたら。

―答―
そうですね、ある展覧会の時ですが、公募展に向かって、一生懸命にやってきたところが、どうにもならない作品しかできず、迷いながら、友達の励ましもあって、結局、出品したことがあります。私の先生からは、意外に褒めてもらったのですが、審査の傾向から、無理だろうと言われました。
ところが、予想に反して、入選していました。この時は、さすがに喜びました。ただ、身に浸みて思ったのは、自分の判断と人の判断は、残念ながら、違うことが多いという事と、自分の判断には自信を持つべきですが、人の作品を見る時には、凝り固まった自分の判断材料への多少の反省もいるのではないだろうか、ということです。
もう一つ思う事は、この大量生産の時代、経済の世界規模化で、ともかく、生活は慌ただしくなってきていますね。そいう傾向は、絵の勉強の姿勢にも影響が出ると思います。落ち着いて勉強がしにくくなっています。
テノールの修業など、時間がかかるし、大変でしょうね。なにしろ、商業主義の時代、物を判断する基準が、あいまいになってきます。自分が、もし絵の道をおさめるなら、何を犠牲にすべきか、はっきり自覚する必要があると思います。
昔見た、モジリアニが主人公になった映画の一場面ですが、アメリカの実業家に、友達の斡旋で、絵が売れようとしますが、モジリアニは、相手の態度が気に入らず、自分の絵がポスターになってあちこちに張られるのだろうと、皮肉を言い、売りません。お金が欲しい奥さんにはかわいそうな話です。この逸話が本当か嘘かは、知りませんが、人間として、大事な事を示唆しているような気がします。
それにしても、先日、久し振りに、FMでオーケストラの演奏を聴いたのですが、ハイドンの交響楽、何番かは忘れましたが、何とテンポの早いこと、運動会のようでしたよ。これが、現実なんですね。しかし、現実は、また移ろいやすい物です。なにが、真実でしょう、私の絵が、これに答えることが出来るでしょうか? そう願い、細道を行くしかありません。

―質問者―
長いこと有難うございました。ご精進をお祈りいたします。

2012年12月採録,文責、メディア―アール。

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